〈新青年〉以前――若き日の森下雨村

森下一仁

2005年4月23日
高知県立文学館「探偵小説の父・森下雨村」展講演草稿


 森下雨村が生涯になした仕事を振り返ってみますと、実に多岐にわたっていることがわかります。

 まず、なんといっても雑誌〈新青年〉編集長としての仕事。江戸川乱歩ら多くの探偵小説作家を発掘しました。「探偵小説の父」と呼ばれるのは、雨村のこの側面です。
 このあたりについては、次にお話くださる湯浅さんがくわしく述べられると思いますが、あるジャンルが興隆し、大きな流れとなって世の中に認められるのには何といっても編集者の力が大きいのです。作家がいて、読者がいて、評論家がいて……さまざまな人たちが探偵小説というものを作り上げ、盛りたてましたが、なかでも編集者の存在というのが大きい。プロデューサーとして全体の動きを取り仕切るのが編集者の役割です。私の関係するSFの分野でも同じでした。

 次に、やはり探偵小説に関連していいますと、自分自身が探偵小説を書きました。「作家としての雨村」です。小説でいえば、探偵小説に限らず、今のSFのはしりのような科学冒険小説も書きました。このことは後で触れます。

 また、海外の探偵小説の翻訳も行いました。コリンズの『月長石』など、名訳として知られています。これは「翻訳家としての雨村」。

 それから、これは戦争の直前に佐川町へ戻って来てからのことになりますが、古くからの友人である竹村源兵衛こと西谷退三が遺した翻訳『セルボーンの博物誌』の出版実現に奔走しました。
 その後、自分の『つり随想・猿猴川に死す』を出版しようとしますが、果たせず、ご承知のようにこの本は雨村が亡くなって4年経ってから世に出ます。この随筆のもとになっているのは、長年にわたる釣りへの愛着、豊富な経験です。特に、東京から佐川に戻ってからの釣りへの打ち込みようはただ事ではなかったようです。

 釣りのかたわら、自宅の畑では野菜や果物の栽培にも熱心に取り組みました。なかでも栗の栽培は大したものでした。日本に探偵小説という新しい文芸を持ち込んだように、佐川の園芸にも、トマトやイチゴ、栗などの新しい作物を持ち込んだのです。

 このように、編集者、作家、翻訳家、エッセイスト、農民と、雨村はたくさんの仕事をしましたが、ここで私は雨村が編集者になる前の話を少ししてみたいと思います。

 博文館の編集者になる前、雨村は〈やまと新聞〉の記者をしていました。
 〈やまと新聞〉は明治19年に条野伝平という人たちが創刊した、いわゆる「小新聞」で、「大新聞」が男性知識人の読むものとされたのに対し、「女の読むべき新聞」としてスタートしました。
 だいぶ後ですが、明治32年報知新聞に載せた広告には次のようにあります。



美人を看よ やまと新聞
◎やまと新聞は隔日に精巧美麗なる美人の写真付録を添ゆるのみならず日曜毎に面白き講談筆記十六頁の小冊子付録をも添ゆ
◎やまと新聞は天下比類なき勉強新聞にて小説講談は勿論雑報平易にして面白きこと亦他に類なし
◎定価は一ヶ月金二十銭 地方郵税共前金二十八銭 本社東京市京橋区尾張町二丁目
 

 講談筆記とありますが、日本で初めて講談の筆記(三遊亭円朝のもの)を連載したのは、このやまと新聞です。連載読み物の威力は大きく、創刊後間もなく1万部を超え、明治22年には東京でいちばん売れる新聞になりました。

 こういう、いわば「柔らかい新聞」に雨村は就職したのですが、ここで口を利いてくれたのは元宮内大臣・田中光顕伯爵でした。

 なぜ、田中伯爵は雨村をやまと新聞に紹介したのか?
 推測に過ぎませんが、おそらく長州閥のつながりがあったのでしょう。やまと新聞は、先の広告を出した翌年、松下軍治という人に買収されています。松下は長野県出身ですが、山県有朋・桂太郎の長州閥勢力と近かったそうです。当人も明治41年から二期にわたって衆院議員をつとめています。
 田中伯爵は土佐出身といっても、高杉晋作に私淑し、長州藩の一員のような感じでしたから、松下軍治には声を掛け易かったのではないでしょうか。それに、やまと新聞なら、雨村は学生時代出入りしたことがありました。寄宿していた麗澤舎の機関誌ともいうべき〈霧生関〉という本の印刷に関してでした。

 とにかく、こういうことで雨村はやまと新聞に就職し、大正3年4月から、博文館に入る大正7年秋まで4年半を記者として過ごします。年齢にして24歳から28歳の間のことです。

 雨村はなぜ、新聞記者になったのでしょう?
 理由は2つ考えられます。
 ひとつは、東京で仕事をしたかった。家督を継ぐよう迫られていた雨村が、親に迫られて結婚をし、その替わりに、「約束は守ったぜよ」とばかりに7歳年下の花嫁を置きざりにして上京した次第は、雨村の生涯におけるひとつのクライマックスでした。その際、親に頼らずに生きるためにはどうしても仕事が必要だった。そこで田中伯爵を頼って、やまと新聞に口を利いてもらったのです。
 それにしても、なぜ新聞社だったのか。しかもかなり柔らかい新聞社だったのか。口利きをしてもらうにしても、もっと硬い会社があったのではないでしょうか。
 おそらく、このあたりは雨村の希望だったはずです。雨村は文筆の道で仕事をしたかったのです。もしかしたら、作家か翻訳家になりたかったのかもしれない。しかし、最初からそれで食べてゆける当てはありません。明治を代表する作家である森鴎外も夏目漱石も軍医であったり、朝日新聞社員であったりした時代の話です。文筆の道で生きるには、新聞記者というのは、いちばん近道に見えたのではないでしょうか。これが2つめの理由だと思います。

 新聞記者・森下岩太郎がどのような仕事をしたのか、よくわかりません。
 ただ、ある日、やまと新聞を訪ねてきた黒岩涙香とすれ違ったことはわかっています。日本人に探偵小説の面白さを知らしめた男と、本格的に探偵文壇をつくりだした男の、1回かぎりの、一瞬の出会いでした。

 記者の仕事以外にやっていたことは、いくつかわかっています。
 少女雑誌に科学冒険小説を書いていたのです。これは雨村の重要な仕事であったと、私は考えます。
 それともうひとつ、奇妙な仕事をしていた可能性があります。記者になって3年目の大正5年、文会堂という出版社から『少年団と青年団』という本が出ていて、これが「田中義一校閲、森下岩太郎著」となっているのです。

 田中義一という人の身分は「陸軍中将」。後の陸軍大臣、総理大臣となる陸軍のエリートです。長州出身で、ここにも長州閥が匂います。

 この本は、岩太郎にとって何だったのでしょう?
 内容は、英米のボーイスカウトを始めとして、世界各国の少年団、青年団を紹介してあります。なぜ、雨村=岩太郎は突然、少年団や青年団のあり方に興味を持ったのでしょう?

 この謎は、たぶん雨村から考えるのではなく、校閲者の田中義一の側から考える方がわかりやすいと思います。『少年団と青年団』の「序」で田中中将は――



 予、曩(さき)に欧米を巡遊し各国競って青年の社会的教育に努力するの尋常ならざるを目撃し感嘆措く能はず、帰来上司の許可を得て自ら視察研究せる結果を口演し、且其要旨を摘録して小冊子を編し以て聊か世の注意を喚起したり
 

 と述べています。

 事実、彼は大正2年末に第1次大戦直前の欧米視察を行い、この本が出た翌6年には「大日本青年団」を組織して中央理事長に就任しています。
 どうやら、少年団、青年団への興味は先に田中中将の方にあったらしい。雨村=岩太郎は、中将のキャンペーンの一翼を担わされた――というか、雇われたというのが真相なのではないでしょうか。

 とはいえ、雨村自身、青少年の教育にまったく関心がなかったとも思えません。彼は「一年志願兵」として軍隊教育を受けていますが、この体験は大きな影響を与えました。規則正しい生活、社会と個人との関係についての考え方など、雨村にとっては有益なものだったようです。

 この『少年団と青年団』は国家体制を奉じる側の仕事となりますが、では雨村は体制順応主義者だったのか?

 そうとはいえない動きを、大正4年――『少年団と青年団』の出る前年に見ることができます。
 この年の3月、第12回衆議院議員選挙が行われ、馬場孤蝶が東京市から立候補しました。彼を支持する有名人たちは『孤蝶馬場勝弥氏立候補後援現代文集』なる文集を刊行し、応援しています。この文集には夏目漱石が評論「私の個人主義」を寄せるなど錚々たる面々が並んでいますが、その81人の中に「森下岩太郎」の名もあります。「農奴」というクロポトキンの文章を翻訳して寄せたのです。
 (選挙は、定員11名に対して立候補者27名。孤蝶の得票数は32票。下から2番目で、いうまでもなく落選です。なお、同じ選挙に京都市から与謝野鉄幹が立候補、こちらは最下位落選でしたが、得票数は99ありました)

 馬場孤蝶と雨村の関係は、孤蝶が高知出身であるだけでなく、夫人の源子さんが佐川の人であるということもあり、かなり密接なものだったようです。私邸に気安く出入りしていたといいます。岩太郎が早稲田大学に入って間もない頃から、孤蝶宅で会合を開いた文学サークルに交わっていました。

 文集に寄せたクロポトキンはロシアの無政府主義者です。馬場孤蝶の選挙の立場はかなり進んだもので、無政府主義でこそありませんが、女子参政権、軍備縮小、言論・思想の自由を掲げていたといいます。社会主義者堺利彦や、女権主義者平塚らいてふも彼の支持者として名を連ねています。
 雨村もそうした人たちと近い考えを持っていたと受け取られてもしかたのないところがありますが、彼のクロポトキンへの関心は、ロシアという国と、その文学への興味から来ているものでしょう。この興味は早稲田の学生時代、ヨーロッパ文学を学んだ頃からのものです。馬場孤蝶、それに長谷川天渓といった人たちが大学でこの方面を教えています。
 長谷川天渓は、博文館の編集者を兼ねながら早稲田で講義をしました。やまと新聞に勤めていた雨村を、同社にスカウトしたのが、この人です。先の孤蝶の応援文集にも名前を連ねています。そして、雨村が〈新青年〉で探偵小説を取り上げた時、馬場孤蝶は大先輩として、天渓は直接の上司として、探偵小説の選択にも助言、協力を惜しみませんでした。

 このように、雨村が探偵小説で成功するための人脈が学生時代から培われていたことがわかりますが、もう1人孤蝶の文学サークルにいた仲間に触れておきます。雨村より5歳年長の早稲田の先輩に安成貞雄という人がいました。
 安成貞雄は秋田出身の非常に個性の強い人で、明治末からジャーナリズムの世界で活躍しましたが、大正13年、40歳で亡くなっています。この時、雨村は追悼文で選挙運動のことなどを回想し、
 「何にしても惜しかった――要するにこの一言につきる」
 と記しています。

 馬場孤蝶の選挙運動で、安成は裏方の中心的役割を果たしたらしく、選挙事務長として神田の選挙事務所に詰めて働き、文集の編集も仲間とともに行ったといいます。雨村が大学に入った当時に、孤蝶の自宅で出会ったようです。放浪癖のある人で、さまざまなことをやっています。やまと新聞にも明治44年から大正2年まで籍を置きました。
 この時、彼はモーリス・ルブランの怪盗ルパンものを連載したといいます。また彼は『金髪美人』というタイトルでルパンものの翻案を大正2年に出版したともされています。日本でもっとも早くルパンに注目した人の一人です。

 この安成貞雄の弟は安成二郎といい、大正5年に発刊された〈探偵雑誌〉の編集長をつとめています。雨村に近かったこの兄弟は、探偵小説の匂いをプンプンさせていました。

 さて、ルブランの怪盗ルパンを日本に最初に紹介したのは明治42年1月、週刊誌〈サンデー〉6号に連載された『泥棒の泥棒』(「黒真珠」の翻案とされる)といわれています。この訳者の名前は「森下流仏楼」。モーリス・ルブランをもじったものですが、その正体はわかりません。
 〈サンデー〉には安成貞雄が文芸評論を書いていましたから、あるいは安成かともいわれています。安成には「白雲流水楼」というペンネームもあったようです。しかし、モーリスを「森下」としたのはなぜ? 「森須」ならわかりますが。

 雨村はこの時、18歳。安成貞雄とはすでに相知っていたのではないでしょうか。
 そして、3月には大学館から『冒険小説 宝島探検』を出しています。著者名は表紙などでは「母子草」、奥付では「森下岩太郎」となっています。
 雨村のご子息・時男さんは田中貢太郎が「小遣い稼ぎのため神田の大学館という赤本屋の原稿を引き受け、200枚を3日で書いたと伝える」と記しています。原稿用紙に換算してみますと、220枚になりますから、おそらく、これがそうだといって間違いないでしょう。

 雨村はすでに18歳にして冒険小説を書き、そして、もしかしたら探偵小説の翻訳もやっていました。
 若き日の雨村は文筆の道にこころざし、東京での活躍を夢見ていました。そして、その周囲には将来の「探偵小説の父」を支えてくれる人たちが早くも存在していたのです。