コードウェイナー・スミスは、ひとつの神話であり、はるかな未来の記憶である。
SFファンは、もう20年も前からその名前を心に深く刻み込み、しかし、今になってもまだ、たった2冊の本しか手にすることができない。もちろん、日本での話でありますが。1冊は5年前の短篇集『鼠と竜のゲーム』であり、もう1冊は今度出た長篇『ノーストリリア』(どちらもハヤカワ文庫)。訳者の浅倉久志氏の言葉をそのまま引けば「SF史上ワン・アンド・オンリーの作家コードウェイナー・スミスが残した、ただ1冊の長篇」ということになる。
コードウェイナー・スミスはいくつもの逆説から成り立っている。
極東の軍事問題に関する専門家マイロン・ラインバーガー博士であり、詩情あふれる先鋭的なSFを発表する謎の作家であった。
謎の作家の正体が判明した時、本人はすでに死亡していた。そのSF作品は、最初から完成されており、しかも最後まで未完成だった。
へたくそな詩人であり、並み外れたSF作家であった。
作品はグロテスクで美しく、非情であり感傷的である。
作者は20年前に死亡しているにもかかわらず、その作品は最近生み出されているどのSFよりも、"新しい"。
こうっいった逆説は、今回翻訳された長篇にも存分に詰め込まれている。
まずタイトル。
ノーストリリア NORSTRILIA とは、オールド・ノース・オーストラリアのことであるという。ヨーロッパにとって、オーストラリアは〈新しい〉〈南の〉大陸であるはずなのに、スミスは〈古い〉〈北の〉オーストラリアを、自分が創りだした未来の大事な星の名前とした。物語は、最初にすべてが明らかにされる。その部分を書き抜いてみよう。
結末が、最初に語られる。
- お話は簡単だ。むかし、ひとりの少年が地球という惑星を買いとった。痛い教訓だった。あ んなことは一度あっただけ。二度と起こらないように、われわれは手を打った。少年は地球へやってきて、なみはずれた冒険を重ねたすえに、自分のほしいものを手に入れ、ぶじに帰ることができた。お話はそれだけだ。
主人公の少年が住むノーストリリアは、宇宙で最も裕福な星であり、住民は極めて質素に暮らしている。大金持ちの貧乏人なのである。
少年は十六歳だが、実は六十歳を越えている。年寄の子供。
少年は宇宙で最大の権力を手に入れながら、もっとも弱い立場にたたされている。
少年の恋人は、地球一の美女でありながら、人間ではない。
地面の底にいる、鳥でない鳥。
男の肉体をもつ女。その他にも数えあげようとすれば、いくらでも出てきそうだが、とにかくコードウェイナー・スミスはこういった相反するものを一体化させることに情熱をそそいでいるように見える。
このことはラインバーガー博士としてのスミスにもいえるかもしれない。『鼠と竜のゲーム』のJ・J・ピアスの序文から引用してみよう。
名誉ある言葉を叫ぶことが、降伏の表明となる――これはいかにもコードウェイナー・スミス的な逆説である。
- 朝鮮戦争で、ラインバーガーは、武器を捨てることを恥と考える中国軍兵士に対し、ある作 戦を立案して、何千人もを投降させることに成功した。彼の作成した宣伝ビラには、兵士たちが投降するには、" 愛 " 、"義務W、"人類W、"徳Wにあたる中国語をさけぶだけでよい、ということが説明してあった。これら四つの単語は、たまたまこの順序で発音されると、『わたしは降伏する(アイ・サレンダー)という英語に聞こえるのだ。彼はこのことを、自分の生涯でなしとげた最も価値ある行動、と考えていた。
(浅倉久志訳)
ラインバーガーとコードウェイナー・スミスについて考えることは、SFにとってかなり重要な何かを示唆するような気がするが、今はその余裕がない。逆説によって成り立っている作家の逆説的な作品に話をもどそう。すでに結末の判明している物語の中には、他の場所で語られた物語や、まだ語られていない(そして永遠に語られることのない)物語に関することがらがちりばめられている。だから読者はひとつの物語を知ると同時に、多くの謎を与えられることになる。複雑に絡み合った未来のエピソードは、語られれば語られるほど、わからない部分が増えてゆく。しかもその不可知感が、コードウエイナー ・スミスの描き出す未来に、奇妙なリアリティをかもしだしているのである。
まったく、どこまでいっても逆説からのがれることのできない作家であり、作品であることか。
たった2冊しか読めない、と書いたが、残された作品の数はそれほど多くはないようである。
待てば待つほど、それを手に入れた時の喜びは大きい、といった逆説は、この際はないことにしてもらいたいのだが……。
〈小説推理〉1987年6月号