日本SFの歩み(1962―1996)

森下一仁


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 日本にSFという小説のジャンルが定着したのは、1960年代に入ってからだ。思い切った言い方をすれば、それまで「日本SF」というものは存在しなかった。
 もちろん、60年代以前にもSFは書かれていた。熱心な読者もいた。しかし、SFが社会的に認知されたジャンルとして存在するようになったのは、1960年を過ぎてからだった。くわしい年号をあげるのは、あまり意味がないかもしれない。でも、あえて、1962年という年を、日本SF誕生の年としよう。
 その理由としては、まず、この年、小松左京、平井和正、光瀬龍らが〈SFマガジン〉でデビューすることをあげたい。小松左京は前年の第1回空想科学小説コンテスト(後のハヤカワ・SFコンテスト)の努力賞だった。62年の第2回コンテストの入賞者には、筒井康隆、豊田有恒、半村良らの名が並んでいる。また今日泊亜蘭は、この年、東都書房から長編『光の塔』を刊行した。すでにショートショートの第一人者とされていた星新一、雑誌デビューを果たし長編『燃える傾斜』(63年東都書房刊)を用意していた眉村卓など、SF第1世代と呼ばれる人たちは、ここでほぼ出揃った感じだ。
 読者、編集者、翻訳家、作家が集う第1回日本SF大会が開かれたのも、この年の五月だった。日本のSFはこの年に、本格的に動きだしたといえるのではないだろうか。
 翌63年には日本SF作家クラブが発足。文芸家協会編の『文芸年鑑』には「SF界展望」と題して、前年の日本SFの総括が掲載されるようになった。日本SFは確固たる実質を持ち、社会にその存在を認められた。
 それまで、日本にSFは根付かないとされていた。戦後、いくつもの出版社から刊行された翻訳SFの叢書は発刊後間もなく中止されるのが常だった。様子が変わったのは1957年末に早川書房から〈ハヤカワ・ファンタジイ〉(後の〈ハヤカワSFシリーズ〉)が刊行されて以来のことだ。英米SFを中心とする翻訳もののこの叢書は順調に出版点数を重ね、2年後、同社は月刊の〈SFマガジン〉をスタートさせる。日本SFはこの雑誌を中心として、初期の歩みを見せてゆくことになる。

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 初期の日本SF作家たちは、それぞれ「得意技」ともいうべきテーマを持ち、各人の個性を際立たせていた。ショートショートの星新一、人類の存在意義を問う本格SFの小松左京、茫漠たる時の流れの中に詩情を紡ぎだす宇宙SFの光瀬龍、風刺と諧謔のスラップスティックSFを得意とする筒井康隆、組織内での個人のアイデンティティーを探るインサイダーSFの眉村卓、歴史SFの豊田有恒、昭和初期の町並みをノスタルジー溢れる筆致で描きだした広瀬正、暗い心理描写が独特だった久野四郎、それに数少ない理科系出身者でハードSFの雄となった石原藤夫……。
 それだけしか書かないというわけではない。それぞれどんな分野の小説もこなせる才能を持っていた。しかし、それと同時に、ひとことで特徴を言い表わせる「看板」を掲げていたのだ。
 このように、個々人の作風はバラエティに富んでいた。しかし、初期の日本SFが英米のSFの影響のもとにあったことは確かだ。そうした海外SFの優れた紹介者となったのが矢野徹、野田昌宏、浅倉久志、伊藤典夫といった人たちだった。彼らは翻訳をするだけでなく、未訳の名作や新作、作家の動向などについても熱心に筆をふるい、日本の読者たち、さらには読者から育つことになる後の作家たちにも大きな影響を与えた。
 こうした作家や翻訳家たちは、それまでの我が国の伝統とは異質な文学的意義と楽しみをSFに見いだし、それを日本に根付かせようとしたのだった。そこには一種、啓蒙運動の側面があった。日本人がこれまで知らなかった楽しみを、これまで知らなかった笑いを、これまで知らなかった恐怖を、これまで知らなかった思考法を、SFによってもたらそうとしたのだ。そういう意味で、彼らは開拓者であり、伝導者であった。
 その運動を組織し、支えた二人の人物を書きもらすことはできない。〈SFマガジン〉編集長だった福島正実と、SF評論を一手に引き受けた石川喬司だ。彼らは創作もよくしたが、もっぱらプロデューサーとして、またアジテーターとして日本SFの興隆に力を尽くした。
 初期のSF人たちは新しい文学としてのSFの意義を熱意をこめて説いた。そして、それが日本SFに一定のイメージを与えることにもなった。ひとことで言えば、それは「知的エリートのための高級な娯楽」といったようなものだ。60年代の終わり、山野浩一や荒巻義雄が固定化し始めたSFの殻を破るべく「新しい波」を起こそうとし、ハードボイルド作家として知られていた河野典生が詩情溢れる短篇SFを発表した。が、そうした動きも決してSFの知的イメージを覆すものではなかった。
 しかし、1970年代に入ると、状況はかなり変わってくる。

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 日本SF誕生の年、〈SFマガジン〉コンテストに入賞者として名を連ねていた半村良はデビュー後間もなく雌伏期間に入っていた。その彼が70年代に入って突然活躍し始める。
 また、長くアニメや漫画の原作に力を注いでいた平井和正が〈ウルフガイ〉などの長編シリーズを発表し始めるのも70年代になってからのことだ。
 堀晃、梶尾真司、横田順彌、鏡明、川又千秋といった古くからのファンが、作家あるいは評論家として登場してくるのもこの頃だ。中でもSF創世記から同人誌〈宇宙塵〉を主宰し、SF作家たちを送りだしてきた柴野拓美が小隅黎のペンネームでヤング向けのSFを発表し始めたのを忘れることはできない。また田中光二、山田正紀、かんべむさしら「第2世代」と呼ばれる新人たちも続々とデビューを果たした。彼らよりはやや年長になるが、自動車や飛行船などにロマンを見いだした高斎正もデビューしている。そして、時期はやや遅れて75年になると、山尾悠子、鈴木いずみといった女性SF作家が誕生する。
 こうして作家が陣容を厚くする中で、73年に発表された小松左京の『日本沈没』が大ベストセラーとなった。一部「知的エリート」のものだったSFは、ここに来て広く一般の読書人に受け入れられるエンターテイメントへと脱皮したといえるだろう。
 この脱皮は、アメリカSFの直接の影響下からの離脱といいかえることもできる。半村良の伝奇SFは日本の大衆小説の伝統をSFの中にうまくいかしたものだし、平井和正の長編シリーズは超人的ヒーローの魅力で読者をひきつけるもので、それまでの日本SFとは違った路線を開拓した。田中光二と山田正紀には英米からの影響が強いが、それはジャンルSFそのものというよりも、むしろライダー・ハガード、イアン・フレミング、マイクル・クライトンらの冒険小説の色彩を強く感じさせた。未知の世界へ読者の目を開かせようとしてきた日本SFは、読者が先刻周知の「あの面白さ」を新たな装いのもとに提供し、広く受け入れられるものとなったのだ。筒井康隆はこうした状況を敏感にとらえ、1975年、神戸で開催した第14回日本SF大会のテーマを「SFの浸透と拡散」とした。「浸透と拡散」はこれから後の日本SFをとらえるキイワードとなる。
 ちょうどこの時期、出版界も変貌しつつあった。映画、テレビ、出版といういくつものメディアを使って大量動員、大量消費を促す、いわゆる「角川商法」が登場したのだ。日本人向けに変質したSFは、出版社の期待するマス・セールスにこたえうるジャンルと目されるようになってゆく。

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 1978年になって、さらに日本SFを後押しする「事件」が起こった。『未知との遭遇』『スターウォーズ』とあいついで公開された映画が大ヒットし、SFブームが出現したのだ。
 SF映画は、翌年の『エイリアン』『スーパーマン』さらにその次の年の『スターウォーズ・帝国の逆襲』と話題作が続き、若い世代が熱狂的に支持したアニメーション『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』なども人気とを呼んだ。SFブームはまさに沸騰した。
 角川商法の成功を見ていた出版界はこの動きに敏感に反応した。78年には「SFビジュアル・マガジン」と銘打った月刊〈スターログ〉(ツルモトルーム)が、翌79年にはSF小説誌〈SFアドベンチャー〉(徳間書店)と〈SF宝石〉(光文社)が創刊された。以前からの〈SFマガジン〉〈奇想天外〉(奇想天外社)に加えて、実に5種類ものSF専門誌が書店の棚を賑わすことになったのだった(もう一誌〈季刊NW−SF〉がNW−SF社から出ていたが、商業誌とはいいがたく、また刊行も不定期だった)。
 これらの雑誌を舞台に、新たな書き手が活躍を始める。〈奇想天外〉からは、新井素子、夢枕獏、高井信、谷甲州、大和真也、中原涼、〈SFマガジン〉からは、岬兄悟、野阿梓、神林長平、大原まり子、火浦功、水見稜、草上仁、難波弘之、〈SFアドベンチャー〉からは田中芳樹、大場惑、松本富雄、波津尚子、西秋生らが、〈SF宝石〉からは菅浩江が出た。
 また、ファンから評論家への道を歩んでいた川又千秋、鏡明も創作陣に参入、荒俣宏、亀和田武、笠井潔も同様の道をたどった。
 彼らよりずっと年長の石川英輔は古参のSFファンだったが、70年代後半から創作を発表、80年代に入って江戸を舞台としたSFに新天地を見いだす。同様に、古くから短篇を書いていた田中文雄もここへ来て、ヒロイック・ファンタジーの長編シリーズを発表、俄然気を吐いた。さらに、翻訳のかたわら創作に手を染めていた矢野徹が物語作家としての本領を発揮。同じく翻訳で活躍していた野田昌宏も長編シリーズを執筆して熱心なファンを得た。後にSFを離れ、時代小説で高く評価される宮本昌孝の登場はやや遅れるが、彼もやはりこの頃、長編シリーズの書き手として登場している。
 他ジャンルからSFへの参入もあった。中島梓の名で文芸評論家として出発していた栗本薫が、ミステリとともにSFの創作に力を注ぎ、占星術や雑誌コラムなどで活躍していた式貴士はグロテスクなユーモアを特徴とする短篇SFを量産した。また、ほとんど誰にも知られることなく幻想小説を書いていた殿谷みな子は、SF界で認められ、作品を発表するようになった。津山紘一、石津嵐、今野敏といった人々も〈SFアドベンチャー〉誌に作品を発表、SF界に名を知られるようになった。
 この時期見逃せないのは、集英社文庫コバルトシリーズ、朝日ソノラマのソノラマ文庫というティーンエイジャー向け文庫の存在だ。わかりやすくて面白い小説を目指す両文庫には、新井素子、夢枕獏らを始めとして多くの新人SF作家たちが執筆した。また逆に、これらの文庫にSF作品を発表して作家としての地歩を固める人たちも出てきた。高千穂遥、斉藤英一朗、菊地秀行、清水義範らがそうだ。この傾向は、その後も講談社X文庫、角川スニーカー文庫などへと舞台を広げ、朝松健、飯野文彦、伊東麻紀、井上雅彦、梅原克文、小野不由美、久美沙織、小林一夫、図子慧、波多野鷹、ひかわ玲子、山下定、山本弘といった人材を輩出している。
 このようにして、日本SFを支える人材はどんどんふくれあがり、発表される作品の数も膨大なものとなった。ちなみに石原藤夫の労作『SF図書解説総目録』に収録された国内SF作品数は、1980年だけで369点。10年前の4倍強、20年前の123倍にのぼっている。日本SFの全体像を見極めるのが困難になってきた中で、大宮信光、志賀隆夫、巽孝之らSF研究家たちは『日本SF年鑑』を編纂、出版した(1981年の出版物を対象とした82年版より5冊刊行)。  このような状況のもとで制定されたのが日本SF大賞だった。日本SF作家クラブが主催し徳間書店が後援するこの賞は、メディアを小説に限らないユニークな賞として1980年に設定された(注:2014年の34回以降、徳間書店に替わって、ドワンゴが協賛)。

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 80年代に入って、世の中は一時、不況にあえぐようになったが、SFのブームはさらに続いた。映画でいえば、81年『レイダーズ/失われたアーク』、82年『E.T.』、83年『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』、84年『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』、85年『バック・トゥ・ザ・フューチャー』といったヒット作が連続したし、ゲームセンターの登場、パソコンの普及、科学雑誌の創刊ラッシュ、85年のつくば科学万博開催などで、人々の目が科学に向いたことも、ブームを持続させる背景となった。
 SF作家たちにとっては、書きたいものを書ける恵まれた状況だった。この時期の日本SFは、あらゆる方向に向けてその可能性を追求したといえそうだ。
 だが、逆にいえば、これは「日本SF」とひとことでまとめてしまえるような実体が消失してゆくことにもつながった。読者対象を広げ、軽いエンターテイメントから噛みごたえのあるハードSF、あるいは前衛文学的な実験小説まで、さまざまな様相を見せる作品群を、SFという言葉で一括りするのは不可能になった。「浸透と拡散」が進み、行き着いた果ては、日本SFの雲散霧消という事態が待ち受けていたのだ。
 その結果、当然のことながら、SFブームなどというものも、どこかへ消えてゆくことになる。1980年代は、そんなふうな時代だった。そして、1990年代は日本SFというジャンルが見えなくなった状態で経過していきつつある
 けれども、念のためにいっておかなければならないのだが、「日本SF」とひとことで呼べるようなジャンルはなくなったとしても、SF作品そのものがなくなったりすることはない。SF作品は、これまでの分類や体系を越え、あらゆるところで書かれているのだ。
 たとえば伝統的な「純文学」の流れの中に出現したSFがある。
 もともと安部公房の『第四間氷期』や三島由紀夫の『美しい星』など、純文学作家の書くSFがなかったわけではない。しかし、日本の伝統的文学はSFの存在をまるで無視していた。文学の扱う素材は過去から、せいぜい現代までで、未来のものであるSFは意味がないと考えていたのかもしれない。
 硬直した文学観打破のきっかけとなったのは、ラテン・アメリカ文学の紹介だった。世界文学の中でもっとも先進的であるとされたそれは、凝り固まったリアリズムとは無縁のものだった。さらに同時期に紹介されたイギリスのウィリアム・ゴールディングやアメリカのカート・ヴォネガットの国際的評価の高さもあったのだろう。前者はノーベル文学賞を受賞し、後者も候補として名があげられたが、どちらも主要な作品は純然たるSFといってさしつかえない。
 こうした情勢と呼応するかたちで、日本文化の現状に強い違和感を抱く村上龍が80年、『コインロッカー・ベイビーズ』を発表。同年には、アメリカ現代文学の洗礼を受けた村上春樹がデビュー、SFと文学の垣根を無視した活躍を始める。ベテラン作家の大江健三郎、井上ひさし、日野啓三らも古い日本文学の枠にとらわれない創作活動でSFに接近した。逆に、SFの方からは筒井康隆が「純文学」と銘打たれた作品群を発表する。そしてこの時代以降、新しい文学の書き手たちは、そのほとんどがSF的手法を取り入れることに何の躊躇も覚えなくなった。高橋源一郎、島田雅彦、いとうせいこう、小林恭二、大岡玲、久間十義、奥泉光、笙野頼子、別唐晶司、大石圭、川上弘美など、そうした作家の名を挙げればきりがない。
 ミステリや中間小説など、純文学以外の小説の書き手たちも、当然のようにSF的要素を取り入れた作品を発表する。浅田次郎、東直己、井沢元彦、井上夢人、薄井ゆうじ、江坂遊、大沢在昌、景山民夫、北村薫、椎名誠、篠田節子、高橋克彦、司城志郎、友成純一、中島渉、西澤保彦、坂東真砂子、東野圭吾、平山夢明、水城雄、宮部みゆき、山口雅也といった面々が現時点までにそうした傾向を見せているが、この数は今後ますます増える一方だろう。とりわけ、1989年に設定された日本ファンタジーノベル大賞は、このような作家たちの有力な供給源となっている。佐藤亜紀、佐藤哲也、岡崎弘明、北野勇作、高野史緒、藤田雅矢といった人たちがその面々だ(注:日本ファンタジーノベル大賞は2013年にいったん休止の後、2017年に再開されることになった)。
 さらに、94年に始まった日本ホラー小説大賞も同様の位置を占めるかもしれない。瀬名秀明、小林泰三といった人たちが、ここから登場した。
 また、SFとパソコンゲームの境界領域に成立したゲーム小説、シミュレーション小説の分野では、荒巻義雄、川又千秋、田中光二、谷甲州、山田正紀らのSF作家が腕をふるった。この分野からも、現実とは異なる「もうひとつの世界」を設定することのできる作家が育って欲しいものだ。
 最後にSF専門誌の動向に触れておこう。
 70年代末から80年代前半にかけて続々登場したSF専門誌は、日本SFの拡散、透明化にともなって、次々と姿を消していった。前記の〈スターログ〉、〈SF宝石〉のほかに、〈SFイズム〉(シャピオ)、〈SFの本〉(新時代社)、〈SFワールド〉(双葉社)などである。そんな中で健闘したのは〈SFアドベンチャー〉(徳間書店)、〈獅子王〉(朝日ソノラマ)、それに〈奇想天外〉の流れを汲む〈小説奇想天外〉(大陸書房)だったが、3誌とも90年代に入ると間もなく、休刊もしくは廃刊となってしまった。現在残る専門誌は〈SFマガジン〉だけだ(注:同誌は2015年から隔月刊となった)。
 専門誌の数だけでいえば70年代なかば以前の状態に戻ってしまったわけだ。SF的要素のある作品ならどこででも受け入れられるのに、SFとしか呼びようのない作品の発表舞台が極めて限られるという、奇妙な現象が起こっているのだ。そういう困難な状況の中で専門誌から育った作家には、橋元淳一郎、中井紀夫、村田基、東野司、柾悟郎、松尾由美、森岡浩之らがいる。また石飛卓美は、デビューこそミステリ誌だったものの、ずっとSFに腕をふるい続けているし、以前〈奇想天外〉誌に牧野ねこの名で短篇を発表していた牧野修は、90年代になってから再スタートを切った。その後には、秋山完、巌宏士、岡本賢一、彩院忍といったソノラマ文庫出身の作家が続いている。

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 駆け足で「日本SF」の歩みを見てきた。といっても、ここに記すことのできたのは、社会的な現象としてのSF――いわば、外側から眺めたSFだけであって、テーマや作風など、個々の作家や作品の内容にまで踏み込むことはできなかった。日本のSFは、敗戦からの復興、冷戦、社会主義の崩壊、景気の浮き沈みなどと無縁ではなかった。しかし、そうした分析は省いた。また、重要な表現形態であるマンガについても触れる余裕がなかった。今後の課題としたい。
 それにしても、おびただしい数の作品が生み出され、消えてゆく出版界の中で、これからのSFはどうなるのだろうか。
 私としては、「日本SF」という言葉で一括りできるジャンルはすでに存在しなくなった、と見ているのだが、その判断は適当かどうか。この文章を読んでくださった皆さんのご意見はどうなのだろう?  ただ、繰り返しになるが、「日本SF」という特殊なジャンルがなくなったとしても、SFそのものはなくならない。物語本来のおもしろさを保持し、さらに時代の新しい想像力を取り込んでゆく受け皿は、SFをおいてほかにない、と私は信じている。

(1996年11月)


『日本SFの逆襲』(1994年徳間書店刊)所収の文章を改稿しました。